ブックエンド

本と本のあいだのあれ

『なぜ、世界はルワンダを救えなかったのか-PKO司令官の手記-』

これまでに読んだ本の中で最もヘビーな本の一冊。

 

なぜ、世界はルワンダを救えなかったのか―PKO司令官の手記

なぜ、世界はルワンダを救えなかったのか―PKO司令官の手記

 

 ルワンダ大虐殺が起きた当時、PKO国連平和維持活動)の司令官として当地に駐在していたカナダ人軍人ロメオ・ダレールの手記。1日に1万人が殺される状態が3ヶ月以上続くという世界最悪の速度と規模で遂行されたジェノサイド(大量虐殺)を目の当たりにしながらも、国際社会から十分な支援と指示をもらえず、彼はそれを止めることができなかった。そして、何人もの部下を失っただけでなく、彼自身も帰国後のPTSDに苦しみ自殺未遂も起こしたのちに、現在では平和構築や紛争解決の分野で講師をしている。

この本が何かで紹介されていたのを目にした時には、正直あんまり印象に残らなかったけど、その後にたまたま書店で見つけて、手にとった。ボリュームも、内容もとても重たいものとは思いつつ、読み進めた。

 

 

感想はいくつかあるけど、まず「国連の限界とは?」という点について考えた。ルワンダ大虐殺が起きた1994年当時、国際社会の関心はボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争に集中していた。例外的にルワンダ旧宗主国であるベルギールワンダ政府軍の軍事顧問をしていたフランスのみが抱いていた関心はいずれもきな臭い。フランスは、ルワンダの内戦を「イギリス語圏とフランス語圏の対立」と置換えていたことが後に明らかになり、結果として作戦の一部が虐殺を援護したことを非難された。いずれにしろ、その前年ソマリア内戦から米軍を中心に国連軍が撤退したことが大いなる失敗として国際社会に刻まれていたこともあり、その失敗を繰り返したくない国連における政治的関心を、資源も乏しいアフリカの小国での内紛は引きつけることができなかった。

ルワンダ大虐殺の始まりとして、PKOベルギー軍人10人が過激派により殺された。これは周到に計画されたものであった。つまり、ベルギー人が殺されることによりベルギー国内における反派兵の世論が高まり、ベルギー軍は撤退するだろうと。結果として、過激派の思惑通りにベルギーは撤退し、ロメオ・ダレール氏は最新装備を伴ったその主力を奪われた。

根本的に国際連合が加盟国からの「拠出」に大きく依存している以上は、人権や人類愛だけではどうしても越えられない壁があるのではないか。実利がなければ、どの国からも人もお金も資源も情報も拠出されず、物事は解決しない。政治家もまずは自国の国民を納得させなければならない。もちろんこれは環境保全の分野も例外ではなく、種々の環境条約の有効性について信じたい思いはありつつも、具体的な国際社会からの拠出を得るためには、明確な理由がいるのだ。

 

次に、語弊のある表現だが、ロメオ・ダレール氏は世界一厳しい状況にあった中間管理職ではなかろうか、ということを思った。彼は、多くの市民や要人、部下、そして自らを危険に晒しながらも史上まれにみる虐殺の現場報告と作戦案、そして支援の要請をNYの国連本部に送り続けた。しかし、国連本部は動かなかった。担当者の能力の問題ということだけではなく、結局、力のある国の思惑に左右され真に必要な措置をとるための意思決定に至らなかったことを示している。

彼はその時に任務に忠実であった。もちろん手記は彼自身の視点で書かれており、多くの救えなかった命もあっただろうが、限られたその場の資源や人材を最大限活用した。そして時に彼は国連本部の指示(マンデート)に背いても、可能な限りの住民保護を行った。大虐殺の末期には、事態鎮圧のために過激派の指導者層と会談をし、握手すらしている。(この本の原題は、『Shake Hands with the Devils』である)そんな極限状態時に彼はどう行動したんだろうか。NYの上司がいかに動かないかを部下に愚痴ったのだろうか。現場を投げ出すということは頭によぎらなかったのだろうか。結果として彼もまた心に傷を負った被害者の一人であり、前述の軍律違反を犯したことも事実ではあるが、その行動哲学には真摯に向き合いたい。ちなみに彼の上司として当時NYにいた3人の担当官の内の一人は、のちに事務総長となりノーベル平和賞を受賞したコフィ・アナンであった。

 

 最後に、煽動の恐ろしさを知った。ルワンダには、人口の84%を占めるフツ族と15%を占めるツチ族と約1%の少数民族トゥワ族が暮らしているが、ルワンダ大虐殺はフツ族過激派によるツチ族フツ族穏健派に対する攻撃であった。これはベルギー植民地時代の統治システムが要因であると分析されている。元来、農耕中心のツチ族と牧畜中心のフツ族は同じ起源を持ち、隣り合って暮らしていた。が、ある種の思想的な背景も関係し、ベルギーは統治下において少数派であったツチ族を優遇し、フツ族を間接統治させたのである。悪しき制度として、出身部族を示すIDカードまで導入され、2つの部族は完全に隔てられた。第二次大戦後、独立の機運が高まった時にベルギーは国際的な世論を受けて、フツ族支持に方針を変更し、1959年フツ族ツチ族による最初の民族対立が起こり双方に死者が出た後、1962年ウガンダは独立した。無血クーデターにより発足したハビャリマナ政権下では、表面的には民族対立は落ち着いた。

一度は落ち着いた民族対立に再び火をつけたのがラジオによる煽動である。虐殺当時のルワンダ識字率は50%程度であり、貧しい生活でのラジオは唯一の情報発信源であり娯楽であった。虐殺を先導した急先鋒であるフツ至上主義的なミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョン(RTLM)は、ツチ族をイニェンジ(ゴキブリ)と呼び、「以前のようにツチ族フツ族を支配しようとするだろう」「ツチ族は攻撃の準備をしている」「やられる前にやらなければならない」という極めて煽動的な事柄を虚偽の情報をとともに虐殺前から流し続けた。このように先制攻撃や人殺しがラジオにより正当化されたことにより過激派のみではなく、一般的なフツ族市民も虐殺に加担した。そうでなければ自らがフツ族穏健派として処刑されてしまうこともあった。この時に、かのIDカードが大活躍したことは言うまでもない。

異民族をゴキブリなどと称して攻撃を行う、いわゆるヘイトスピーチは許されない。しかし、平時とはいえ一定のヘイトスピーチを我々の社会はすでに受け入れてしまってはいないだろうか。ラジオからインターネットに媒体が移っただけで、より深く広くそのメッセージは伝わっていないだろうか。平時ではあくまで対岸の火事であり、馬鹿だ極端だと笑い飛ばしていたものも、緊急時にそのメッセージがどのように社会に対して牙を向くか、今一度直視しなければならない。